2003年総集編  03/12/25




すべては2002年12月30日から始まった
ナベダー(主人)からの誘いだった
「夫婦で禁煙しようじゃないか!」
そして苦悩と、深い深い喪失感の中で、2003年を迎えた。




ナベダーは駄目だったが、私の禁煙は奇跡的に続いていた。
「禁煙のススメ」というサイトの掲示板に、日夜書き込み気を紛らわせた。
友人に喫煙者が多いので接触を避け、ひたすらネットにしがみ続けた。
そして、暇つぶしから 自分のHPを作った。
拙い自己満な「むしとり」のサイトだった。


初夏

2年前、父は胆管癌の摘出手術をした。
早期ではなかったが、主治医の方針で、告知しなかった。
これをきっかけに、父は禁煙し
40年間の喫煙生活に終止符を打った。
父に会ったら「私も禁煙したよ」って言うのを 楽しみにしていた。


再発

7月10日、癌再発の知らせがあった。
2年前に、最悪の覚悟はしていたが
2年も経って、期待と希望が出てきたところだった。
最後まで、隠し続けると思っていた、癌告知をするという。
何故2年前にしなかったのか、疑問が残った。
告知される父の気持ちを思うと辛かった。




仙骨、腰骨など5箇所の骨転移だった。
母と妹は、末期癌という事実に戸惑い、受け入れられずにいた。
精神的にかなり参っていて、些細なことで口喧嘩になった。
私には、現場が見えず、気持ちだけが空回りした。
母や妹の感情を、受け止める程の余裕もなく
引っ掻き回すだけの、子供じみた自分に、嫌気がした


帰省

重たい気持ちのまま帰省し、実家では毎晩のように、喧嘩をした。
病院では、疼痛緩和ケアが出来ていない上、抗癌剤投与をしますか?と言う。
私は、投与に反対だった。友人、知人、関係者数人に相談したが
「可能性が限りなくゼロでもゼロではない以上やるべきだ」という一人の意見を除き
答えは 皆、同じ「NO」だった。
「悪戯に体力を落とすだけ」「完治は望めない」「やらない方がいい」
私が、投与に反対すると、母は、怒った。
「父に残された唯一の希望、その生きる希望を断ち切るのか」
(注: 父の場合の投与について限定して書いています。 抗癌剤を否定するものではありません)


後悔

病室で、父に聞かれた「抗癌剤やるしかないんだろう?」
「そうだね」と答えるしかなかった。
嘘をついたうしろめたさ、後悔と懺悔の気持ち、悔しさや悲しみ
様々な気持ちが、涙の堰を決壊させた。
病院の帰り道、車を運転しながら涙がぽろぽろ溢れてきた。
おいおい泣いた。声をあげて泣いた。
意識のある父に会えるのは最後かもしれないと思った。


初秋

結局、抗癌剤の投与は2クールやった。
食欲や体重は少し減ったが、幸い、体力は落ちずに済んだようだ。
しかし、相変わらず、痛みと戦うだけの日々を送り、
主治医の回診は、風のようにベッドの脇を通り過ぎるという。
今の病院は、もう限界だ。ホスピスへの転院を考え始めた時だった。
骨シンチの検査で、転移が広がっている事が判った。
妹がみても、悲しくなるくらいスカスカの骨の画像だったらしい。
いよいよ末期癌という事実を、認めざる得なかった。
父は、主治医に「身辺整理をしてきなさい」と言われ
家族は「今後の方針をまとめるように」と言われた。




外泊許可が出て、自宅にいる父から電話があった
「とうとう病院に見離されたよ。もう、何も「すべ」はないのか?3回目の抗癌剤をしたい。」
もう嘘をつくのも、後悔するのも嫌だった。誤魔化したり気休めを言っても、その場しのぎで
結局、父を苦しめている。私は、出来る限り言葉を選んで、誠実に答えたつもりだった。
「抗癌剤投与をしない、という選択肢もあるんだよ。
ヒットする確立は宝くじみたいに小さいのに、リスクが高いから。
医学的に治療方法がなくても、民間療法という手段があるから・・・」
それでも、父は「諦めたくない、抗癌剤をしたい。黙って待つのは嫌だ」と言った。
「癌専門の病院(ホスピス)へ移ろう、抗癌剤の話は、そこでまた考えればいい
とりあえず、今の病院は出よう。」そんな話をした
私の言葉は、父を追い詰めただろうか?
正直に告げ、後悔しないはずだったのに、虚しくて悲しくて、浮かび上がれない日があった。
真実を、告げても告げなくても、落ち込むものなのか・・・


晩秋
10月、ホスピスに転院し、そこの主治医から説明を受け、あっさりと抗癌剤投与は諦めた。
2週間に1度 外来で薬をもらい、あとは自宅療養という形だった。
ホスピスの対応は迅速かつ的確で、痛みは、完全に取り除かれた。
「治ることはありませんが、上手に付き合っていけばいいんですよ。
なんでも相談してください。すべて、我々に任せてください」
転院して良かった。 主治医の言葉に、救われた思いだった。
父のみならず、そばにいる家族の気持ちにまで配慮してくれたらしい。
やはり、治って元気に生きるための医療と
人間らしく生きるための医療は、診ているところが違うと実感した。


photo by Kozo


ゆきむしの頃

痛みと戦う父を見ずに済み、家族も少し前向きになり、落ち着いてきた。
しかし、心の準備など到底できるわけもなく
怒りや苦しみ、悔しさに、のたうちまわる日もあるらしい。
日々、父の容態に一喜一憂している。
今日は具合が良いと言っては、弾んだ声で電話をよこし
今日は具合が悪いと言っては、落ち込んで電話をよこす。
「いちいち、感じてたら疲れるよ、もう少し、リラックスしたら?」と言ったが
それはそれで良いのかもしれない と最近、思い始めている。
病む人と同じ気持ちで、辛い日は一緒に泣き、楽しい日は一緒に笑う。
先々を思い煩わず、一日一日を いとおしみながら、共に生きる。
特別なことは出来ないし、特別である必要はないと思う。
自然なままでいいのだと思う今日この頃・・・




民間療法が効いているのか、自宅療養が良いのか、調子が大分いいらしい。
口から物を食べ、杖をついて歩き、短距離なら車も運転するそうだ。
寝ている時間は長いらしいが、自宅で過ごしていられる、
そんな父に会いに、冬の北海道へ帰る。
どんな状態か、ちょっと怖いが、自然体のままでいようと思う。


Love

ナベムス1号も骨折したりで、いろいろあった2003年。
色々な人々に支えられた2003年。チャレンジな一年だったなぁ・・・
もう、来年の話してもいいよね?
来年も、HP作成は目や首や肩に相談しながら、ホドホドに頑張ります。
写真、javascriptとかスタイルシートとか、お絵描きとか、やりたいことだらけ。
強欲主婦37歳は飛躍の年にしたいなぁ〜。ジャンプ!
そう、床から5センチくらいは離れたい ジャンプ!!
飛んでないって? (* ̄@@ ̄*) テヘ ・・来年もよろしくね。>ALL


そういえば、新潟にもイルミネーションがありました。
規模が小さいので、すっかり忘れておりました。
HPのネタ探しに、お寒い夜にママチャリで行ってみました。
周りはカップルだらけでした。
せめて、子連れで行けばよかった。
変なおばちゃん、1人でデジカメ撮影は絶対に変です!


しかも横断歩道のド真中で、立ち止まって撮っているし・・・
黄色になってから、慌てて渡るし・・・怪しすぎです
渋滞車中の人々の視線を感じながら、頑張りました。
なぁ〜に、来年で37歳!! 平気のへっちゃら!!
この電飾を見つけた時には、かなりニヤニヤしていました。←危ない
ラストの写真に決まり!!「Love」


そう、愛って大切だよね
ワタナベから愛をこめて・・・え?いらない?
そんなこと言わずに受け取ってね!!
(* ̄◎ ̄*)ぶっっちゅうううん♪
来年もよろしくですぅ〜〜 (*^@@^*) /~~~~


←Prev 0000 絵日記Index 0000 HP 0000 Next→