当時は、一階層に10戸入居の、6階建て(全60戸)の206号(借家)に住んでいた。
第1子を妊娠していて、出産を2ヶ月後に控えていた。
夕飯の準備をしていた時だ、窓ガラスの割れる音と、女性の悲鳴が聞こえた。
「何か、ベランダから落ちたのかな?」と思いながらベランダに出て外をみた。
すると、燃えているではないか、203号室が!
その部屋の天井沿いに、炎と煙が でているのが見えた。
「嘘!!」しか言葉がなかった。泣きそうな気持をこらえた。すぐに、電話をかけた。もちろん119番だ。
しかし、通話音がない。廊下にでて、非常ベルを押したが鳴らない。
廊下側は、火の手も煙もなかったので、もう一度 家に入った。
大きいカバンに、出産に備えて、そろえていた産着や肌着をいれた。
わずかしかない貴金属をいれた。通帳やハンコもいれた。
持ち出す財産は、他に何もなかった。ガスの元栓も確認し
各部屋のドアをしっかり閉めた。でも、手は、ずっと小刻みに、震えたままだった。
「見おさめね。私達の新婚生活が燃えるのね」と残念な気持で廊下へでた。
煙がではじめていたが、開放廊下なので、問題はなかった。
210側の階段から降りるとき、210に、子供が3人いたことを思いだし、ピンポンした。
「あら、ワタナベさん」と、呑気に奥さんがでてきた。
「火事だよ!」
「え?」
「火事だよ!私が、上2人連れて 駐車場行くから、
あなたもはやく 下の子と出ておいで!!」
消防車ははしご車を含め、十数台来た。道路は交通止めになり、やじうまもたくさん集まった。
避難する住民も次々と、駐車場に降りてきた。
しかし、みんな手ぶらだ。大きいカバンを、 持っている自分がとても強欲な人間に見えた。
そっと、隠したいのだが、大きすぎた。周りにむかって、いい訳もしたかった。
「私は、燃えてる部屋の隣の隣の隣です!身の回りの物を、ほんの少しいれてあります」
とは言えずにいたら、カバンをみた知り合いが
「ワタナベさん、こんな時に、しっかりしてるわ」と言った。
余計恥ずかしくなった。 私は、妊婦なのに、自分のコートを着て出るのを忘れていたのだ。
夕暮れ時は、寒かった。
1時間くらいで、火事はおさまり、一室を全焼しただけで、ケガ人もなかった。
「火事は無事、沈火しました。どうぞ、お部屋へお戻り下さい」
消防サイドのOKがでて、大きいカバンを持って帰ると、ご飯が炊けていた。
「通電してたの?」
火事の間中、いつもどおり、炊けたご飯は、とても喉をとおらなかった。
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